中学生のときは毎日ふざけていたものの、高専に入ってから静かな暮らしを所望したのもあって殆どふざけなくなった、とはいえ、未だに中学時代の私の片鱗が見えてしまう。ある去年末の一日、微積の授業で静かだったのが妙に気になってクラスにとっておきの爆弾を投下した。
その爆弾とは、問題の解答を教室前方のホワイトボードに書く際(尚、私はずっと参加してる)、積分定数「C」を「志井」(高専のある場所の地名)と書くというものだ。実は但し書きで「積分定数を~とする」と書いておくと間違いだとは言えなくなるのである。ちなみにTwitterであげられていた積分定数を某猫型ロボットの顔にしてテストの答案を書いてマルを貰ったという内容のツイートと、ある数学の論文で「射」というものに平仮名が使われていたということからヒントを得てこのような犯行に及んだ訳だが、いきなり解答に「志井」と現れたもんだからインク切れ寸前だったものの思いの外爆弾は教室全体に作用して犯人は久しぶりの心地よさを感じた。
のは良かったものの中身を次の授業でも行ったのは少しまずかったと反省している。私には「志井」しかありえなかったのだ。他に合うものが無かったのである。そして「志井」に勝る新たなものが現れたときに限り「積分定数」に登用しようと思ったのだ。その結果、とある人に「(徳力嵐山口)」(モノレールでいう「志井駅」の前が「徳力嵐山口」であるから)と書かれてしまったのである。流石に私が何とかしなくては。そう思った私は前述の「きまり」を破ってその「徳力嵐山口」の更に前の駅の名前から「(徳力公団前)」と書いてしまった、自分が作った雰囲気に呑まれてしまったのである。その結果、「ただ積分定数を書きたい人」と認知されたらしく、元々そういうつもりの無かった私は再び積分定数を「C」と書くことにしたのだ。
しかし、今日、その「積分定数の使い手」が今度は「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピーン・クリピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ」(多分原文ママ)と何と積分定数に「ピカソの本名」を使ってきたのである。ただ、同じく「積分定数の使い手」の自分は違和感を感じた。
1つ目は積分定数に「()」が使われてなかったことだ。これは私も一番最初に犯して気になったことだが、特にこのような「・」のあるものは「積」を表しているように捉えられる可能性もなくはないのだ。括弧を付けよう!
2つ目は積分定数の持つ冗長性で、「(志井)」ぐらいなら支障はないがこのようなものは時間もかかる、よって余裕をかましてるようにも感じられるのだ。
3つ目は「C要素」だ。「(志井)」は発音を揃えることでそれを満たした、故に美しい。ピカソの作品は別の観点では美しいかもしれないがピカソの本名の何処にも「C」を感じることが出来ない。故に積分定数にするには適してないのだ。
4つ目はただの知識自慢になっている点だ。私はピカソの本名をフルネームで言えるが(唐突な自分語り)、それはこの世界に於いては何も関係ない。
これ以上言うとキリがないので辞めるけど、「北九州高専2-5」でウケを狙うなら別の方法でアプローチすべきだと思います、はい。しかし、このアプローチは十分効果があると思う。これで今日は終わります。(残り時間1分)